前稿で香西成資は高峠石川氏と川之江石川氏を同一視したのではないかと記しました。
又、南海治乱記は天正七年に妻鳥(女鳥、目取とも記す)采女に加えて馬立、新居、前川、長曽我部、金子刑部太輔、石川傳兵衛尉が人質を出して元親に帰服したと記しています。然し新居郡金子・石川氏が元親に帰服したのは金子文書の存在から天正九年である事が明らかですから新居郡金子・石川両氏が元親に天正七年に帰服したはずはありません。南海治乱記著者の香西成資は天正七年に川之江の妻鳥、馬立(本姓石川)、新瀬川(本姓石川)などが元親に帰服した時に、帰服した川之江石川氏を新居郡石川氏だと誤解したのだろうと筆者は考えます。
面白いのは予陽本が元亀三年に河野派であった妻鳥采女、河上但馬守安勝、前川善兵衛、曽我若狭守の内の妻鳥采女が天正十年に元親派となり、元親が残りの河野派三氏(河上・前川・曽我)が籠る川之江城を攻めて倒した時に河之江新瀬川新右衛門が元親に加勢したと記している事です。つまり予陽本は「河上・前川・曽我」対「元親・新瀬川」の組み合わせなのですが南海治乱記は「元親派馬立・前川・長曽我部」と前川・曽我(長宗我部)の立場が変わっています。更に言うと「元親記」では版により「新居・前川」が「新前川」になっていたりします。
以上は要するに川之江地域の事情が正しく理解されていなかったので各本が前川・曽我氏の立場を異なって記したという事ではないでしょうか。
両石川氏が同一視されたと考えると、戦国時代の東予関連の一次史料に石川氏が登場する場合が幾つかあるのですが、それを正しく理解するにはどちらの石川氏、つまり高峠石川氏か川之江石川氏かを判断する事が重要であると筆者は考えています。
一例をあげましょう。
元亀2年(1571年)三月、阿波大西氏が宇摩郡東部に侵攻してきましたが、河上氏がそれを敗北させるという事がありました(愛媛県史資料集二〇六六)。
同年5月、毛利と三好の争いの中、毛利氏が三好派であった新居宇摩二郡勢を抑え込みたいとの思いから来島村上勢を二郡に派兵しようと計画していたが宇摩郡河上氏の進言で派兵を延期しました(愛媛県史資料集二一一四)。
そして翌6月、共に隆景配下であった乃美宗勝が井上又右衛門に次の内容の書状を出しています(愛媛県史資料集二〇三九)。
「来島から村河(村上河内守)が来て言うには、来島の原太(原興生)を宇摩郡河上氏まで派遣した、そして石川から進退について言い分があったが其の内石川に覚悟をさせ阿讃衆への戦いに同調する事を承知させるつもりだと言うことであった。塩飽衆・因島衆にはそれを不審に思う者がいる事について今日村河にそれを尋ねると、村上越後守・村上河内守がいる限り境目の件で色々言う人々がいるだろうが心配する事はない。」
(原太を河上まで今日上せ候由村河物語候、左候て石川進退申延申分候而、其内へ石川覚悟をもさせ阿讃衆行をも能々承合申上之ためと被申候、塩飽因嶋辺にハ右之趣をも不審之取沙汰共申旨、今日も村河ニ心持を尋候ヘハ越・河被居候程ハ何たる境目之儀を雑説申候共可心安之由被申)
この書状が指す石川氏は高峠石川氏なのか、それとも川之江石川氏なのか。
筆者は高峠石川氏の事だと考えていました。然し此の手紙は河上氏が大西氏を敗北させた後の事で且つ讃岐との境目の話をしています。高峠は讃岐との境目からは遠すぎると思いますが、川之江石川氏の存在を知って以降ここで言う石川氏は川之江石川氏だと考えを改めました。
川之江石川氏は阿波三好氏・大西氏とは近い関係にあったので川之江石川氏が三好・大西勢に同調する事を防ぐために毛利氏は来島村上勢を派遣しようとしたが、川之江石川氏が大西氏に同調しない事がわかったので河上氏は来島村上勢の派遣の延期を隆景に要請したと理解できると思います。
新居郡石川氏もこの時反毛利ではなかったと筆者は考えますがその話は別の機会にしましょう。
(続く)
(晴堂)
又、南海治乱記は天正七年に妻鳥(女鳥、目取とも記す)采女に加えて馬立、新居、前川、長曽我部、金子刑部太輔、石川傳兵衛尉が人質を出して元親に帰服したと記しています。然し新居郡金子・石川氏が元親に帰服したのは金子文書の存在から天正九年である事が明らかですから新居郡金子・石川両氏が元親に天正七年に帰服したはずはありません。南海治乱記著者の香西成資は天正七年に川之江の妻鳥、馬立(本姓石川)、新瀬川(本姓石川)などが元親に帰服した時に、帰服した川之江石川氏を新居郡石川氏だと誤解したのだろうと筆者は考えます。
面白いのは予陽本が元亀三年に河野派であった妻鳥采女、河上但馬守安勝、前川善兵衛、曽我若狭守の内の妻鳥采女が天正十年に元親派となり、元親が残りの河野派三氏(河上・前川・曽我)が籠る川之江城を攻めて倒した時に河之江新瀬川新右衛門が元親に加勢したと記している事です。つまり予陽本は「河上・前川・曽我」対「元親・新瀬川」の組み合わせなのですが南海治乱記は「元親派馬立・前川・長曽我部」と前川・曽我(長宗我部)の立場が変わっています。更に言うと「元親記」では版により「新居・前川」が「新前川」になっていたりします。
以上は要するに川之江地域の事情が正しく理解されていなかったので各本が前川・曽我氏の立場を異なって記したという事ではないでしょうか。
両石川氏が同一視されたと考えると、戦国時代の東予関連の一次史料に石川氏が登場する場合が幾つかあるのですが、それを正しく理解するにはどちらの石川氏、つまり高峠石川氏か川之江石川氏かを判断する事が重要であると筆者は考えています。
一例をあげましょう。
元亀2年(1571年)三月、阿波大西氏が宇摩郡東部に侵攻してきましたが、河上氏がそれを敗北させるという事がありました(愛媛県史資料集二〇六六)。
同年5月、毛利と三好の争いの中、毛利氏が三好派であった新居宇摩二郡勢を抑え込みたいとの思いから来島村上勢を二郡に派兵しようと計画していたが宇摩郡河上氏の進言で派兵を延期しました(愛媛県史資料集二一一四)。
そして翌6月、共に隆景配下であった乃美宗勝が井上又右衛門に次の内容の書状を出しています(愛媛県史資料集二〇三九)。
「来島から村河(村上河内守)が来て言うには、来島の原太(原興生)を宇摩郡河上氏まで派遣した、そして石川から進退について言い分があったが其の内石川に覚悟をさせ阿讃衆への戦いに同調する事を承知させるつもりだと言うことであった。塩飽衆・因島衆にはそれを不審に思う者がいる事について今日村河にそれを尋ねると、村上越後守・村上河内守がいる限り境目の件で色々言う人々がいるだろうが心配する事はない。」
(原太を河上まで今日上せ候由村河物語候、左候て石川進退申延申分候而、其内へ石川覚悟をもさせ阿讃衆行をも能々承合申上之ためと被申候、塩飽因嶋辺にハ右之趣をも不審之取沙汰共申旨、今日も村河ニ心持を尋候ヘハ越・河被居候程ハ何たる境目之儀を雑説申候共可心安之由被申)
この書状が指す石川氏は高峠石川氏なのか、それとも川之江石川氏なのか。
筆者は高峠石川氏の事だと考えていました。然し此の手紙は河上氏が大西氏を敗北させた後の事で且つ讃岐との境目の話をしています。高峠は讃岐との境目からは遠すぎると思いますが、川之江石川氏の存在を知って以降ここで言う石川氏は川之江石川氏だと考えを改めました。
川之江石川氏は阿波三好氏・大西氏とは近い関係にあったので川之江石川氏が三好・大西勢に同調する事を防ぐために毛利氏は来島村上勢を派遣しようとしたが、川之江石川氏が大西氏に同調しない事がわかったので河上氏は来島村上勢の派遣の延期を隆景に要請したと理解できると思います。
新居郡石川氏もこの時反毛利ではなかったと筆者は考えますがその話は別の機会にしましょう。
(続く)
(晴堂)