新居浜郷土史談会

新居浜の歴史

澄水記 高峠石川氏が二郡の旗頭???

澄水記は石川伊予守が新居宇摩二郡の旗頭として新居郡に来たと記しています。現代の専門家も澄水記が軍記物の類で信頼できないとする一方で石川氏が新居宇摩二郡の旗頭であったと言う事には疑いを持っていない模様です。

例えば「細川野州家の細川政春が備中守護に補任される。これに依って政春のもとに新居・宇摩両郡の支配権が統合された。それに伴い備中守護代で備中幸山城主石川氏の一族が高峠城主として迎えられ両郡内の実質的な支配権を掌握することになる。」と新居浜市の歴史には記されています。

これは澄水記がいう高峠石川氏が二郡の旗頭として来郡したと言う事を言い換えただけだと筆者は思います。来郡の経緯については別途考察したいと考えますが、高峠石川氏が新居・宇摩二郡の旗頭であり両郡の支配権を掌握したと言うのは正しいのだろうかと筆者は疑問を感じます。

澄水記が引用した予陽本は常に「新居宇摩両郡」と表記し恰も二郡が一体である様に書いており、更に毛利との戦いでは虎竹後見人の近藤長門守が新居宇摩二郡を守ろうとしたと記しています。然しその割には予陽本は二郡旗頭に相応しい石川氏の業績・逸話などや宇摩郡の個別の状況には一切触れていません。この点については澄水記も同じなのですが、澄水記はもっと酷い事に高峠石川氏を中心とした支配体制である方角に宇摩郡中部・東部の国人が加わっていたとは書いていません。西部の薦田・野田でさえ遅れて加わったとしています。又、高尾城での毛利との戦い(天正の陣)に鍋・轆両城の者が参加しなかったと記しています。鍋の城は宇摩郡中部の真鍋氏居城の松尾城の事、轆の城は川之江の轟城の事ではないかと推測しますが、極めて重要な毛利との戦いに宇摩郡中部と東部の武士達は新居郡勢と一緒に戦わなかったというのです。従って高峠石川氏が二郡の旗頭であったという澄水記の主張は怪しくなるのではないでしょうか。

史実を調べてみると宇摩郡の戦国時代には東部川之江城に備中浅口郡と宇摩郡を領有した細川野州家細川通董(みちただ)が1540~60年代の約20年間居住していました。その周辺には妻鳥氏という細川家被官の一族がいましたから東部では通董を盛り立てて行こうとした国人衆がいたと思われます。
中部には松尾城真鍋氏、河上氏などが居ましたが、前稿で記した様に真鍋氏は阿波三好氏や大西氏と極めて親しい関係を持っていましたし河上氏は来島村上氏に近い氏族です。そして軍記物の「大西軍記」は轟城の大西氏と川之江城河上但馬守そして松尾城真鍋氏の争いを描いたものですが、大西軍記には宇摩郡西部と新居郡は殆ど登場しません。従って少なくとも宇摩郡東部と中部は新居郡石川氏とは別個の勢力圏だったと考えられるのではないでしょうか。

十六世紀は各地で守護の支配権が崩壊していましたし、京都在住の野州家政春は支配権の基礎となる十分な兵力を備中及び東予には持っていなかったと思われます。名分があっても実力(武力)が無ければ絵に描かいた餅になる訳ですから、野州家が二郡の支配権を統合した事や高峠石川氏が野州家の下で二郡の旗頭として二郡の支配権を掌握した事は無かったと筆者は考えます。

筆者は、高峠石川氏は新居郡旗頭として来郡したのであって、宇摩郡は当初から支配領域に入って無かったと考えます。来郡の経緯については別の機会に述べる事としましょう。


                          (続く)
                          (晴堂)