今回は周布郡旗頭黒川氏について検討したいと思います。
然し筆者はいずれの記述にも疑問を持っています。
先ず初めに黒川氏の来歴がよく分かっていません。
①一次史料に残されたものとしては、
天文六年(1537年) 黒川石鶴丸名の徳威神社棟札控え
永禄二年(1559年) 越智通尭名の徳威神社棟札控えと高野山宿坊證文
天正二年(1574年) 黒川山城守通博名の高野山宿坊證文
天正六年(1578年) 黒川通博宛行状等です。
天文六年の石鶴丸は誰なのか。黒川氏が何故越智姓を名乗ったのか、その経緯は何なのか。黒川氏の来歴を調べる時にはこれらも併せて考える必要があるでしょう。
②古くは予陽河野家譜(以下予陽本)が天文十三年(1544年)の頃久万山大除城(上浮穴郡久万町東明神)主大野利直が兵を起こして、小手滝城(温泉郡川内町井内)主戒能通運を攻めた時に黒川通俊が大野利直に味方して戒能を攻めたが馬を射られて進退きわまり、通俊は洲之内(温泉郡川内町則之内)で自害して果てた。その後嫡子黒川通堯は深く戒能通運を恨み、大野氏と結んで再び大熊山城を攻めたが本意を達成できなかったと記しています。つまり通俊の子が通尭であるとしています。但し通俊は一次史料には現れません。
③十九世紀に書かれた小松邑志は、黒河氏が享禄に始まり本姓は曽我部である事、享禄の頃黒川肥前守元春が千足山村中森の野瀬越前守を討取り、松尾城の松本豊後守を敗走させ、北条の飯塚修理大夫通盛を討ち、周敷村渡辺氏を倒して周布郡を手に入れ、桑村郡鷺ノ森城主桑原氏と合戦したが、河野氏の仲裁で和睦したと記しています。小松邑志は元春が土佐長宗我部の出であるという伝承を否定して黒川氏は千足山近辺の出だとしています。そして同志は元春以降の人物として通俊、通博を挙げています。が彼等の間の親子関係は明確には述べていない様です。確かな資料が無かったという事なのかもしれません。又、通廣(博)の妻は河野通直の娘だとしています。そして通廣娘桃子が正保3年丙戌(西暦1646年)72歳で死去したとしています。
従って通博娘桃子は1575年の生まれになりますので父通博の生年は1540年前後になるのではないかと筆者は推測します。
(続く)
(晴堂)