新居浜郷土史談会

新居浜の歴史

不発弾と新居浜空襲

 今週ニュースや新聞に、西条市の民家の庭先から不発弾が見つかったとの記事がありました。約40年前に新居浜市の解体現場から持ち帰ったとのこと。終戦後不発弾は鉄不足のおり、鉄の材料として利用されることも多かったとか。
 今回はそのような意図があったのかどうか分かりません。もしかすると新居浜市に対する空襲の不発弾だったかもしれません。新居浜市の空襲を新居浜史談会誌から紐解いてみると、昭和60年11月発行の郷土史談(現在の新居浜史談の前名)124号粂野為逸氏の「新居浜空襲40年の回想」によると、昭和20年5月8日と7月24日の2回空襲があったそうです。愛媛県下の他の都市に比べて少ない回数です。理由は不明ですが、捕虜収容所が有ったからとか、戦後を見据えてなどと言われてます。5月8日の空襲では住友化学体育館周辺に着弾、7月24日は同じく住友化学の菊本工場及び新居浜工場に対して空襲があったそうです。数名が死傷したとのこと。
 7月24日の空襲は、8月6日に広島への原爆投下の練習を兼ねてたとも言われてます。もし原爆が新居浜に投下されていたら、私も生まれてくることは無かったでしょう。
 なお、これら空襲に対抗するため、日本軍も星越(今の住友鉱山寮辺り)と新居浜工業高校の校庭に高射砲陣地を構え、防空本部が徳常町(今の交番付近)にあったようです。私の父によると、終戦後は防空本部に高射砲の砲身を切断した物が並んでいたそうです。
 繰り返しになりますが、不発弾が新居浜空襲の物か分かりませんが、平和な日々が続くことを願います。